「主イエスは生きている」  07.03.18
                   使徒言行録 25:13〜27

 「生きるにも死ぬにも、わたしの身によって、キリストが公然と
あがめられるようにと切に願い、希望しています」と、パウロは
言いました(フィリピ1:20)。イエスさまに救われた私たちも、職場や
家庭でそのような振る舞いをしたいものです。

 3人の未信者が、パウロのことを話題にしている場面です。
 ローマの総督フェストゥスは、外国人ですから聖書のことも
ユダヤ教のことも深くは知りません。彼は、パウロをどのような
人物と見たのでしょうか。

 第一は、パウロには死罪に相当することはないということです。
 神と人を愛そうとする信仰者の歩みは、おのずと悪から離れ、
良いものを生み出すでしょう。良い人であることが信仰の中心
なのではありませんが、日本の社会においても、クリスチャンは
良い人と見なされることが多くあります。信仰の先人が築いた
良い遺産のひとつです。

 第二は、「イエスが生きていると、パウロは主張している」と
いうことです。パウロがもっとも大切なこととして伝えたかったこと
(Tコリント15:3〜8)が、フェストゥスに伝わっていました。
 私たちの周囲にいる未信者の方々は、私たちが何を主張して
いると思っているでしょうか。私たちは、どんな主イエスを指し
示しているのでしょうか。それを整理したいと思わされる場面です。

 私たちは、主イエスが生きておられ、今も自分を慰め、支え、
導いてくださっている幸いの中で生かされているので、希望と
平安を保っていられること。また、死で終わるのでなく、復活し
神の国の永遠の命に進むという望みをいだいていることを、
指し示したいと思います。

 私たちが指し示している救いを、誤解されることもしばしば
あります。周りの評価を必要以上に気にする必要はありません。
 しかし、
つたない私たちの証しの生活を、主が用いて
くださり、主の救いに入れられる方が起こされることを
期待しながら、それぞれが与えられている職場や家庭での
歩みをしたいのです。